第3章 目の前のこの人、本当に橘結衣なのか?

橘翔太は、橘結衣の視線に刺されたように、ぴくりとまぶたを震わせた。

数秒、言葉を失ってから、眉をひそめる。

「元太は、お前と同じ席にいたくないと言っただけだ。それの何が悪い」

「じゃあ、私があいつに消えろって言うのは、何が悪いの?」

橘翔太の硬い顔つきに、たちまち暗い影が差した。

彼は橘結衣をじっと見つめ、それから橘元太へ視線を向ける。

「お前が席を替えろ」

橘結衣は明らかにおかしかった。

昨日まで、あれほど必死に橘元太の機嫌を取っていたくせに、今日は打って変わって「消えろ」だ。

橘元太は鼻にしわを寄せたものの、まともに相手をする気にもなれず、渋々立ち上がって橘晴美の隣へ移った。

だが、胸の奥は妙にざわついたままだ。

いつだって橘結衣は、彼に話しかけるときは柔らかく、下手に出ていた。

なのに今回は、なんだあの態度は。

向かいに座る橘由樹は、拳を握りしめ、不満げに橘結衣を睨みつけた。

今日はさすがに、調子に乗りすぎじゃないか。

そのとき、橘結衣が皿の肉に箸を伸ばす。

橘由樹はすかさず回転台をくるりと回した。

肉料理は、橘由樹と橘晴美の前へ。

彼は険しい顔で橘結衣を睨む。

「橘結衣、晴美は肉が好きなんだよ。これは晴美のだ。手ぇ出すな」

そう言って、肉をひと切れつまみ、橘晴美の茶碗へ入れた。

橘晴美はにこにこと笑い、小さく肉をかじる。

その目の奥を、一瞬だけ他人の不幸を喜ぶ色がよぎった。

たとえ橘結衣が橘家の実の娘でも、だから何だというの。

この家の愛情は、全部自分のものなのだから。

橘結衣は橘由樹を淡く一瞥し、別の料理へ箸を伸ばした。

だが、届く前にまた回転台が回される。

彼女は箸を置いた。

すっと目を細める。

橘由樹はなおも回転台を回しながら、挑発するように声を張った。

「橘結衣、どうしたんだよ。食べないのか? 腹いっぱいなら、さっさと出てけよ!」

やり返せたことで、橘元太の表情はいくらか和らいだ。

橘晴美は心配そうな顔を作り、そっと橘由樹の袖を引く。

「由樹兄さん、お姉ちゃんをいじめないで……よくないよ」

橘由樹は口を尖らせた。

「晴美、お前だって見ただろ。さっき元太兄さんにどんな態度取ったか。あんなの甘やかせるかよ」

そう言って振り向いた瞬間、橘結衣が静かに自分を見つめているのが目に入った。

底の見えない、黒く沈んだ目。

理由もなく、背中がぞくりと粟立つ。

彼は眉をひそめる。

「橘結衣、なんだよその目は。晴美に料理を譲れって言っただけだろ? まさか怒ったのか?」

「別に」

橘結衣は手元の皿を持ち上げ、そのまま橘由樹のほうへ歩いていく。

橘由樹は訝しげに顔をしかめた。

「何する気だよ」

次の瞬間――

橘結衣は皿ごと料理を、橘由樹の頭にひっくり返した。

低く冷えた声が落ちる。

「これも譲ってあげる――」

「橘結衣、お前……っ、うわあっ!」

ガシャーン、と甲高い破砕音。

床に皿が砕け散り、橘由樹の悲鳴が食堂に響いた。

料理が頭からべったりとかかる。

油が頬を伝い、顔じゅうをぬらしていく。

その場にいた全員が、呆然とした。

いつもおとなしく、言い返しもしなかった橘結衣が、皿を頭にぶちまけたこと。

それだけでも衝撃だったのに、相手が橘由樹だったからだ。

橘結衣がこの家へ来てから、甘えた声で何度も何度も「由樹兄さん」と呼び続けてきた、その相手に。

「橘結衣! お前、頭おかしくなったのか!」

橘由樹は勢いよく立ち上がり、椅子が床をこすってギッと耳障りな音を立てた。

乱暴に髪をぬぐうと、手のひらはソースと油でべたべただ。

怒りで顔を真っ赤にしながら怒鳴る。

「よく見ろよ、自分が何したか分かってんのか!」

橘結衣はその激怒の視線を真正面から受けながらも、どこ吹く風だった。

「橘由樹。これからは、私にちょっかい出さないで」

「お前……」

橘由樹は、目の前の見知らぬような眼差しに、言葉を失った。

これが、本当に橘結衣なのか。

橘元太が眉を寄せる。

「橘結衣、お前、兄さんに向かって――」

橘結衣は冷ややかに遮った。

「私に、あんな兄はいない」

橘元太は一瞬、言葉を飲み込む。

橘由樹も目を見開いた。

あんな兄はいない――だと?

こっちは最初から、お前を妹だなんて認めていない。

それを、どうしてお前のほうがそんなことを言える。

「いい加減にしろ。兄さんに謝れ」

橘元太はナイフとフォークを置いて立ち上がり、橘結衣のもとへ歩み寄ると、その袖を軽くつかんだ。

「昨日、母さんに跪いて反省しろって言われただろ。まだ懲りてないのか」

橘結衣は、その手首をいきなりつかみ返し、容赦なく突き放した。

橘元太は二歩ほどよろめき、腰をテーブルの角にぶつける。

驚愕に目を見張った。

橘結衣が、自分に手を上げた。

それだけでも信じ難いのに、力までこんなに強いなんて――。

端整な顔に、さっと氷のような怒気が張る。

彼は歯を食いしばって叫んだ。

「俺はお前の兄だ!」

橘結衣は両手を脇に垂らしたまま、不機嫌そうに言い返す。

「私にも、あんたみたいな兄はいない」

空気が一気に凍りついた。

橘晴美はその険悪さに青ざめ、慌てて立ち上がると橘結衣のそばへ駆け寄り、その手を取ろうとする。

「お姉ちゃん、落ち着いて。もし由樹兄さんが私にお料理を取ってくれるのが嫌なら、私、もう食卓にはつかないから。橘家のお嬢様って立場が欲しいなら、それだって譲る。だから、ね?」

橘結衣は、橘晴美の絶え間ない声をただうるさいとしか感じなかった。

白々しい。

彼女は橘晴美の手をぐいとつかみ、口元だけで笑う。

「私の気持ち、よく分かってるのね。じゃあその通りにしましょうか。今すぐ一緒に行って、あなたが橘家の養女だって公表してあげる」

橘晴美の顔が強張る。

――それだけは駄目。

反応する暇も与えず、橘結衣は無表情のまま橘晴美を引っ張って外へ向かった。

橘晴美は反射的に足を踏ん張る。

橘結衣は振り返り、苛立ちを隠しもしない声で怒鳴った。

「行くって言ったでしょ。なんで止まるの?」

橘晴美は言葉を失って、目の前の橘結衣を見つめた。

その顔には、これまで見たこともない剥き出しの反骨があった。

「お姉ちゃん、あなた……」

「晴美を放せ」

ずっと黙っていた橘翔太が、ついに口を開いた。

逆鱗に触れられたような低い声。

顔つきはぞっとするほど陰っている。

「何を騒いでる。橘家のお嬢様という肩書きひとつのために、晴美に譲れとでも迫るつもりか」

「迫ってないけど? そう言い出したのは、そっちでしょ」

橘結衣は橘晴美の手を放し、氷のような目で橘翔太を見た。

「話も聞かずに決めつけるなんて、最低」

それだけを言い捨て、くるりと背を向ける。

「待て」

橘翔太の、墨を流したように昏い瞳に、見慣れない色が差した。

橘結衣は足を止め、振り返る。

眉をかすかに寄せ、その目には露骨な苛立ちが浮かんでいた。

「まだ何かあるの?」

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